fineの視界

テーマ未定の雑記帳

記憶

唐突に。

 

辛い記憶より、幸せな記憶の方が、思い出すのは苦しいということはありませんか。

私は、辛い時期はもちろん、幸せな時期も、過去はあまり思い出さずに生きている気がします。そもそも、思い出せないという面も強いのですが。

 

人の記憶でエピソード記憶と呼ばれる「実際の経験の記憶」が、私はどうも苦手です。昔の記憶は、自分の写真でどういったものがあったかという思い出し方や、何らかの文もしくは誰かに話したことによる言葉での記録を記憶している、という感じが強いです。例えば、当時の目線での感覚・感情は、正直ほとんど思い出しません。

 

中学時代は、とても恵まれていましたが、自分自身がひねくれており、常にどこか鬱憤を抱えていた気がします。

高校時代は、それがさらに顕著となり、だいぶ肩肘張った感じで人を拒絶していた時期ですかね。多感なその時期は、やはり恵まれていたのに、辛い時期だったと思います。

大学時代は、生活の場が大きく変わり、興味ある分野を学べたこともあり、充実感のある時間を過ごしました。

といった感じで、分析的に・記録的に思い出すことは、あまり苦ではありません。

無意識に、感覚や感情を呼び起こされるような思い出し方が苦手です。

 

仲が良かった子のことや、当時本気で取り組んだこと、つまりは幸せな瞬間を思い出すのは、落ち着かない気分になります。正確にいえば、意図して思い出そうとする記録的な記憶なら大丈夫ですが、ふと湧き出る懐かしさのようなものは、頭から締め出したくなるのです。普通なら、懐かしいなと微笑ましくなりそうなものですが、目を背けたくなるのは、なぜでしょうね。懐かしさには怖さと悲しみが伴います。

取り戻せないという諦めと、取り戻したいという切望のせめぎ合いでしょうか。

 

辛いことは、あの時があったから今がある、と前向きに捉えられるのに、

幸せなことは、同じものは今はもうない、と後ろ向きに感じ取ってしまうのですね。

やっぱり今も、ひねくれている気がします。

 

そういえば、「死ぬ前に名を残したい」「誰かの心に残りたい」というようなことを言う人もいるかと思うけど、私は死ぬなら「すべての人に忘れさられたい」と思ったこともありますね。変わらずそう思うかというと、少し疑問があるので過去形で書きましたが。

人の記憶の中の自分と、自分が思う自分はきっと違うから、死んだらやっぱり、結局どこにも残らない気がします。自分が納得できない形で変に残るくらいなら、あるいは残ることで誰かを悲しませうるのなら、まるで何もなかったみたいに、で十分良い気がする。

 

なんで、唐突にこんなことを考えたのかも、もう忘れた。